御嶽山の爆発に驚いたのは信州人

オンタケサンという響きは、長野県人の私の世代なら子どもの頃から体に染み付いているはずです。そう、盆踊りのときの、「木曽節」。今回の御嶽山爆発のニュースで一番驚いたのは長野県人だったかもしれません。

だって、まず御嶽山が火山であり爆発する?? しかも3000メートル級の山だったなんて。場所ですら岐阜県境の王滝村って位置を即座に言えた人はいたでしょうか。長野県って長いので特に私の住む北部の人たちには馴染みが薄い・・・という印象でした。

信仰の山として昔から男性がよく登っていたというのは、母から昨夜電話で聞いた話です。今は亡き祖父が晩年毎年登っては、「今年も登れた」と喜びを子どもに話していたそうです。昔は楽しみではなく、信仰のために人々は登っていたのです。山登りの原点とそのリスクを思い知らされた災害でした。

数百人もの登山客が1日に登っていた上、若い登山者の快晴の美しい青空に映える紅葉とともに書かれたつぶやきが・・・爆発直後にTwitterやFacebookでシェアされ拡散しました。胸が締め付けられる思いが広がりました。臨場感あふれる登山者の撮った映像を闇雲に検索し続けたのは私だけじゃなかったのではないでしょうか。

さて、海外ニュースサイトにも即座にニュースがアップされました。王滝村や長野県のウェブサイトには外国人への観光案内としてMt.Ontakeが紹介されている上、観光ガイドブックや観光地紹介サイトにも英語で詳しく御嶽山は紹介されていて、今回、外国人観光客が被害にあったという報道がないことが不思議なくらいです。

長野県の外国人向け観光サイトGo!Naganoにも即座に爆発のニュースを掲載し、市民で在日米国人がボランティアで問い合わせに今も応えています。

山の日を制定して、登山客として海外からも観光客を呼び込もうと長野県はやっきになっています。災害の際に外国人観光客への対応はどうするのか・・・。海外からは今や「地震や津波や原発の国・・・そして火山も爆発する国なのか!?」と、恐れられています。観光客を本当に海外からバンバンと呼び込む必要があるのでしょうか。なんだかわからなくなってきました。

記:寺澤順子
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2014年09月30日 Posted by ライティング・サポーターズ at 23:14Comments(0)寺澤順子NPO・国際交流・インバウンド

花子とアンの矛盾点

蓮子さんって何歳で子ども産んだの? あの時代何歳で花子は結婚したの? 友人の醍醐さんは若すぎないか? などなど、私の中では、常に登場人物たちの年代の矛盾が観ていてつきまとい、混乱しました。

お兄さんは軍にいたハズなのに、なんでしょっちゅう帰って来れたの? 戦争中東京の人たちってそんなに綺麗でいられたの? 妹の営む店が洋風なのも気になりました。真っ白な割烹着を来たり、美しい着物を着たまま生活している主人公たちの生活に違和感が・・・。

学徒動員で傷痍軍人である父を持つ私が心の中で描いてきた戦時中の日本のイメージとはかけ離れていました。

朝ドラって内輪のノリの大衆演劇のぶるい? だから、唐突な茂木さんの棒読みでの登場は許されるのでしょうか? 脚本の戦争や歴史描写の下調べが足りなかった分、仲間さん室井さんら実力派の俳優さんたちの熱演によって形作られてきたドラマが、最後に息切れ的な間延びに加え、茂木の登場で見事に茶番化した瞬間でした。後味の悪いドラマとなってしまいました。

とはいえ、実話をもとにしてドラマ化したものは、ネットに情報が溢れて作り話がゴロゴロしている時代の中で、人気が集まるのは頷けます。その真実を脚色してドラマチックに描いたストーリー展開自体は大変素晴らしい脚本でした。戦争を知らない私たち世代による製作ではこれが限界なのでしょう。

もうひとつ残念なのは、「赤毛のアン」という作品の真髄がどこにも触れられていないこと。主人公の花子は翻訳するのに机上でペンで整然と翻訳していますが、辞書が一冊あったからといって、カナダの自然やカナダ人の生活をなぜ日本語に翻訳できたのか。疑問がとけません。アンのテーマである虚栄心に触れることなく、自身の生き方にさほど苦しまず、いわゆる時代に逆らわない優等生として描かれていたため、「花子」という人物に深く感銘できなかったのは残念です。むしろ蓮子が主人公だったらもっと面白かったのではと考えてしまいます。

新しくスタートした朝ドラが、いわゆる金髪の可愛い外国人妻と、ピン子さんという怖い姑の偶像との戦いという一昔前に日本人が好きだった設定にしたのは、やはり朝ドラが内輪のノリの「大衆演劇」であることをさらに際立たせています。表面的ではない、日本人の精神性や苦しみをどこかに描き出し、それを乗り越えた時に心が暖かくなれるそんなドラマを朝ドラに望むことはそもそも無意味なのかもしれません。

今年も千曲川沿いに稲刈りの季節が来ています。代々この地で営まれて来た米作りとともに生きる私たちの生活に朝のたった十五分のドラマが、束の間の癒しを与えてくれることを願います。

記:寺澤順子
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2014年09月30日 Posted by ライティング・サポーターズ at 06:44Comments(0)寺澤順子その他